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〜 記録をとられる人生 〜

写真:輝さん(作業所)

<幸せのために?>

僕たちはそれがまるで当たり前かのように、施設を利用する障がいを持つ人々の日々の記録をとっています。
もちろんそれらは彼らの未来へとフィードバックされるためのものであり、彼らの明日がよりよいものになるよう活用されるためにとり続けられているはず。
しかし現実にはどうでしょう?
彼らの幸せの構築という前提のもと、振り返れば不適応行動(問題行動とも言う)の記録だけが積み重なっており、彼らの生活の幅をより一層狭くしているだけなのではないでしょうか?

写真:辰徳さん(屯田公園)

<自分の記録がとられていたら>

ここで考えてみたいと思うことは「もし自分の人生に記録がとられていたとしたならば!」どうでしょう。
そしてそれを他の人はどう見るでしょうか?
案外良いところよりも、悪いところに目が行くのかもしれません。
中には過ちのない人生を送って来られた人もいるでしょうが、ほとんどの人はほじくり返されたくない過去があるわけで。
それをあなたの記録として周囲の人が確認したとしたのなら、あなたの行動には制限が付くのかもしれません。

写真:聖さん(滝野すずらん公園)

<特記事項だけが引き継がれる>

入れ替わりが頻繁な施設職員の中で引き継がれていくのは特記事項だけです。
僕が引継ぎを受けたときも「こんな問題がある」とか「こんなことに気を付けて」とか「かつてこんなことした」とかばっかりで・・・
「こんなこともできるんだよ」っていうような前向きな引継ぎを受けたことはありませんでした。(これに関しては自分も反省すべきかも)
例えばもし万引きしたことがあるとすれば、その事実だけが職員間で引き継がれます。
その時その人がなぜ万引きをしたのかは、大量の記録の中に埋もれ再び光を当てられることはありません。
不適応行動を引き起した際の精神状態や環境は時の流れに葬られ。
「万引きするかもしれないから一人で買い物には行かせない方がよいね」
それが正しい支援としてまかり通っているのが現状でしょう。
それならいったい誰のための記録なんだぁ〜って。
記録とはあくまでも、記録をとられる人の生活をより良くするために利用されるべきであり、支援者側のリスクヘッジのために利用するものではありません。
ってことを前提に記録をとって欲しいなって。

写真:翼さん(中華料理店)

<追伸>

不適応行動のことを問題行動と呼ぶ人がいますが、誰にとって問題なのでしょうかね。
支援する人の立場からしか見てない感じがしちゃいます。
不適応行動を問題行動と呼ぶ人のほうが問題って思っちゃいます。
にしても「じゆう」というのは「自(おの)ずから由(よし)」として「自由」となります。けして「公(おおやけ)に由(よし)」として「公由」を「じゆう」とは読みません。
僕は自ずから由と感じて生きていきたいなぁ〜

平成21年12月21日(月)

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(C) Takashi Yokota 2009