職場で、またはプライベートで上手くいかなかったり、嫌なことあったりすると、僕らは心にひとつ荷物を積みます。
友達に愚痴ったり、お酒を飲んだり、僕らは実に様々な方法でその積んでしまった荷物を降ろしています。
もし心に荷物を積んだまま放っておくと、みるみるうちに荷物は積み上がり、やがて荷台からすべては崩れ落ちてしまいます。
「心が崩れる」
この状態をもしパニックだとするならば・・・
自分を傷つけたり、他人に暴力を振るったり、物を壊したり・・・
心の荷台に積んだ荷物が崩れ落ちたとき、人はパニックという形での表現を選ばざるを得ません。
ちなみにこれは障がいを持った人に限った話ではありません。
僕も心の荷台に荷物を積み上げてしまったら、そしてそれが崩れたら・・・
きっとパニックするんだと思います。
さてもし僕が推察するように、心の荷台に積んだ荷物が、ある時崩れてしまうことを「パニック」と呼ぶならば・・・
・パニックの要因ではないかと周囲の人が推察したことは、実はパニックのきっかけにしか過ぎないかもってこと。
・大きなパニックを起こす人ほど、心の荷台に荷物を積み上げるのが上手!なのかもしれないってこと。要するに我慢強いのかも。
・パニックを起こす人は、心の荷台に積んでしまった荷物を降ろすのが下手な人ってこと。
このように考えてみると、パニックという形でしか心の荷台に積んだ荷物を降ろせない人たちへ、僕らができる関わりとは・・・
「心に荷物を積ませないこと!」
そうではないと僕は考えています。
もちろんなるべく、心の荷台に荷物を積ませないようにすることは、大事なことだと思います。
しかし生きていく上で生じる摩擦を、完全に取り去ることはできない。
それを取り去ろうとすれば、別の摩擦が生じるでしょう。
要は心の荷台に、別の荷物を積むだけなんです。
僕らにできること。
それは彼らが心の荷台に積んでしまったその荷物を、降ろす手伝いをすること。
ただそれだけ。
確かにその人の心の荷台に積んでしまった荷物を、本当に降ろせるのは、きっとその人だけでしょう。
でも僕らにはできることがある。
きっとね!
それは・・・
もちろん人それぞれ、千差万別。
だからその人その人に合わせて、カスタマイズされた特注の支援が必要なのです。
施設に入って、まず驚いたこと。
職員たちが、なんの不思議さもなく「○○さんがパニックしています。」って言っていること。
パニック???
最初に聞いたときは、かなり違和感を感じました。
でもいつしかそれに、僕も慣れていました。
「パニック」という言語表現自体が悪いと言っているわけではありません。
ただ福祉は医学用語や心理学用語が入り混じり・・・
福祉用語としてのターミノロジー構築が必要な時期に来ているという気がします。
我が住人たちを支えていく上での、周囲の人々の共通理解が必要だという意味において。