とある音楽療法学会の発表に、こんなものがあった。
確かこんな感じの題だった。
「曲順にこだわる自閉症の女の子への音楽療法の取り組み」
で内容はというと・・・
予定を変更すると、パニックしてしまう子供にお母さんは困っていた。
事実ピアノ教室でも曲順が変わると、その子はパニックしてしまう。
そこで、本人が固執してしまわぬよう、ピアノ教室で毎回曲順を変えるという試みを始めた。
最初は必ずパニックしたが、そのうち曲順が変わることに慣れてきた様子でパニックしなくなった。
その子のお母さんもこのように語っているとのこと。
「この取り組みに慣れ始めてから、自宅で予定の変更があっても、パニックに至らないことがみられるようになりました。」
この発表を聞いて、開いた口が塞がらなかった。
今でもそのことを、鮮明に覚えている。
にしても発表後の質問時間の際に、僕の信頼する音楽療法の先生が、すぐに異を唱えてくれたのでややホッとした。
でもこんな話はいくらでもあるのだ。
僕も自閉症について、発達障がいについてきちんと理解する前には、似たような間違いをたくさんしていた。
こんなことを言って申し訳ないが、そのピアノの先生の取り組みは、虐待と何ら変わらない。
その先生自体はもちろん手を出さなかったろうが、当事者本人が本人に手を出した。
つまりパニックして自傷を繰り返していたのだ。
きっとその自閉症の女の子は、自らを傷付けながらこう学んだに違いない。
「本当の自分を出すことは悪!」だと・・・
このようにして「受動型の自閉症」というのが形成されていく。
いわゆる「指示待ちタイプ」という人たちだ。
もちろんそのピアノの先生も、その子が自傷をしているのを横で見ていて、とてもつらかったに違いない。
自らを傷つけている人がいる横で、しかも自分の取り組みによってパニックし、自傷をしている人の横で、平気でなんかいられない。
そんなとき人は、念仏を唱えるように、自分で自分に言い聞かせるのだ。
「この子の将来にとって、この取り組みは必要だ。きっとこの子は、いつか私の想いをわかってくれる。」と・・・
だから僕は言う。
「愛は禁止」だと!
僕もずいぶん我が住人たちを苦しめてきた。
「変化を受け入れられることは、彼の将来にとって大事なことだ。」とか
「こうやって人は我慢を覚えていくのだ。」とか・・・
まったくその通りだとは思う。
でも僕が彼に乗り越えてもらおうとして、与えたハードルの高さはどうだろうか?
誰だって高すぎて飛べないハードルの前では、いつしか飛ぶことさえあきらめてしまうに違いない。
「体験と経験(2)」に続く・・・