今回はちょっと特別版。
「福祉の住人」はプライベートなサイトとは考えていないので、この話を掲載するのはどうかと悩みました。
しかし3月1日(月)、3月3日(水)、3月5日(金)と記事のアップロードをお休みするので、その一環として捉えていただければと・・・
というわけで障がい関係の話から外れます。
1970年から20年余り続いた内戦が収まってまもなくのカンボジアに、東大寺・一如庵のお坊さんである内田弘慈さんがアンコールワットに訪れた。
戦乱が収まったとはいえ、まだ安全とは言えないカンボジアに彼はなぜ来たのか。
それはアンコールワットの壁画を拓本するためだった。
ご存知の通りクメール文化のレベルは高く、その技術を結集したとされるアンコールワットはアジアの中でも大切な遺跡のひとつだ。
1991年3月彼はフランスのチャーター機で、初めてカンボジアに入国した。
まだ内戦の傷跡が残る町で彼が目にしたのは、雨水をすくっている子供たち・・・
それを飲料水として使っているため、当然のごとく。
彼は拓本もそこそこに井戸を掘り始めた。
まるで風が吹きこずえが揺れるような自然さで・・・
井戸を掘る日本人がいることは、すぐに近隣に伝わった。
そして彼は必要に迫られた場所を優先に井戸を掘り続けた。
彼の元には井戸掘りの要望だけでなく、孤児たちを救って欲しいという要望も来るようになる。
彼はまた風に背中を押されるように、立ち上がった。
そして孤児たちの家「だるま愛育園」ができた。
昨年の10月25日、僕は初めて彼にあった。
彼は北海道の支援者たちに会いに札幌に来ていた。
友人に彼の経緯を聞いてはいたが、「困ってる人はどこにでもいるよ」ってやや訝っている自分もおり・・・
彼の宿泊している、元社員寮のようなところに着くと彼は階段を下りて出てきてくれた。
その時彼はすでに病気を患っていた。
よろよろと階段を下りる彼を、一緒に連れてきただるま愛育園の子供たちが我先にと駆け寄り、彼を支えた。
その光景を見たとき、斜に構えていた自分を恥じた。
次の日僕は彼の運転手を名乗り出た。
彼は北海道まで子供たちを乗せてワンボックスカーで来ていた。
彼の病気は思った以上に重い様子で、僕は彼に少しでも休んでもらおうと・・・
僕と彼の出会いはたったそれだけだ。
そんな僕の元に北海道の支援者からこんな話が・・・
「彼の想いを残したい。君にできることをしてもらいたい。」
心が風に揺らされる音が聞こえた。
というわけで行ってきます。
カンボジアで彼に会ってきます。
だるま愛育園の子供たちに会ってきます。
そして僕のできることをします。
彼の想いをすべて形にすることは不可能でしょう。
でもほんのちょっとでも形にできれば・・・
そしてそれが風になって、また誰かの背中を押すことができるのなら・・・