というわけで「構造化という支援(1)」の続き・・・
僕が知的障がい児者福祉の仕事に携わって1年くらい経った頃、初めて見たティーチプログラムの実践現場で、支援員からこのような説明を受けた。
「自閉症児者は視覚優位なため、カードなどでスケジュールを提示することにより、見通しを持って過ごすことができるんです。」と・・・
確かにスケジュールボードに貼られたカードに従って、自閉症当事者はサクサク動いている。
また支援員はこう付け加えた。
「スケジュールに従って過ごすことにより、自閉症児者にも自立的な活動が可能になるのです。」
※用語解説「視覚優位」
視覚と聴覚の情報量の差を考えれば、人は誰しも視覚優位なのでは?
僕も最初はそう思っていた。
しかしワーキングメモリーの問題などを鑑みれば、「みんな同じ」と一概には言えるものではない。
というわけでそのうち「ワーキングメモリー」のところで詳しく説明をします。
どうして僕があの時、あの場面を受け入れることができなかったのか?
それは自閉症当事者の「送信」がなかったこと。
いや、送信はあった。
それは自傷や他害(他者に暴力を振るうこと)に代表される不適応行動で!
当事者にはそのような負のコミュニケーションでしか、送信が許されていなかった。
※現場の支援員たちを批判しているようにも受け取れる文章ですが、取り組みというのは人と同じように育っていくものです。
僕も最初の頃は、ひどい支援しかできなかったです。
スケジュールなどに代表されるテクニック的なものが、ティーチプログラムと一般的には思われている。
しかし実はティーチは我が住人たちを支えるための支援技術ではない。
ティーチは支援理念なのだ。
「自閉症の人にはこの世界がどう見えてるんだろう?」
というエリックショプラーさんの素朴な疑問をスタートに、自閉症当事者を人間として尊重するためには「みんなと同じ人間なんだ」っていうだけでなく「みんなと違う」ってところにも着目しないとならないよ。
だってそうでなければ本当に人として尊重するってことにならないから。
ティーチの技術は長年の研究の成果であり、その成果が様々な場所で結実することをショプラーさんも今や天国で願っておられるであろう。
しかし彼が自閉症当事者に、日々向き合い、機微に寄り添って来た過程を学ばずに、ティーチを理念ではなく、支援方法として、テクニックとして捉えている節を、実践現場にいる支援員に感じることが多い。
「自閉症の人にはこんな風に関われば良いのです。」
きっとそんな風にひと括りにできるようなものではない。
「構造化という支援(3)」に続く・・・